徳川光圀の性格
水戸藩初代藩主徳川頼房の三男、母は側室・谷氏。徳川家康の孫に当たる。藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行ったほか、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。また、徳川一門の長老として、将軍綱吉期には幕政にも影響力を持った。
同時代から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立しているが、江戸時代後期から近代には白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をするフィクションとしての黄門漫遊譚が確立する。水戸黄門は講談や歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得し、昭和時代には映画やテレビドラマなどの題材とされた。『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊がイメージされたと思われるが、実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、現在の関東地方の範囲から出た記録は無い。
現在では光圀伝承を排除した実証的光圀像の検討も行われており、光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている一方で、為政者としては文化事業が招いた光圀以降の藩財政悪化が指摘されている。
幼少時には、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、少年時代は町で刀を振り回したりする不良な振る舞いを行っており、吉原遊廓通いも頻繁にしていた。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いている。しかし光圀18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより学問に精を出すこととなる。しかしながらその強い性格、果断な本質は年老いても変わることはなかった。
光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。
日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、ラーメンをはじめ、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆がある。肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した生類憐みの令を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。さらに、野犬50匹を捕らえてその皮を綱吉に献上したこともある。
また、オランダ製の靴下、すなわちメリヤス足袋(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示し、朱舜水を招き、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せ、育てている。蝦夷地(後の石狩国)探索のため黒人を2人雇い入れ、そのまま譜代の家臣にしてしまってもいる。他に水戸に来た中国人(もしかしたら清朝から亡命して来た漢民族)も譜代の家臣か使用人にした。
鮭も好物であり、カマとハラスと皮を特に好んだ。さらに、吉原遊郭近郊の浅草界隈で見た手打ちうどんの技術を自ら身につけ、うどんを打つこともあったという。
当時の人物としては普通に衆道のたしなみもあった。光圀は政治を例えて「男色ではなく女色のようにしなければならない」と言った。女色は両方が快楽を得るが男色は片方だけ快楽であり片方にとっては苦痛でしかない。政治は女色のように為政者も民も両方が快楽を得るようにしなくてはならないという意味である。
『大日本史』完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなり、光圀の事業は後の水戸学と呼ばれる歴史学の形成につながり、思想的影響も与える。延宝2年(1674年)には、父・頼房の実母(お万の方)の墓参りと、頼房の准母(お勝の方)の三十三回忌供養のため、鎌倉に出向く。この鎌倉までの日記を『甲寅紀行』(1674年)、『鎌倉日記』(同年)として纏め上げた。更に貞享2年(1685年)には、「鎌倉日記」を基にした地誌『新編鎌倉志』の編纂を家臣の河井恒久らに命じる。
元禄5年(1692年)には、南北朝時代に湊川の戦いで戦死した楠木正成の功績を称え、同地に墓石を建立(光圀65歳)。墓石には、光圀の自筆で「嗚呼忠臣楠氏之墓」と記されている。なお、その場所は明治5年(1872年)、明治天皇によって湊川神社が建立され、昭和30年(1955年)には光圀の銅像も建立されている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
好奇心旺盛で、日本で初めにラーメン食べた人物とされています。
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